捩りとパロディ系 もじりと──けい
ことわざや詞章などの一部または全部を寓意的に同音異義語で差し替え滑稽を表現する技法を〈捩り〉という。語義は「捩る=捻じ曲げる」という動詞が名詞化したものである。捩りは英語のパロディに相当する。
捩りは〈地口〉に似かよっていて、いうなれば一卵性双生児のような関係にある。しかし、双生児兄弟といえども肉体的特徴や個性に相違が見られるように、地口と捩りにも微妙な差異がある。双方とも音通にもとづく洒落にはちがいないが、地口が類音異義で可とするのに対し、捩りのほうは同音異義もしくは酷似類音が原則である。すなわち元の詞章から音通性がかけ離れている場合、地口として通用する場合でも、捩りとはいいがたいケースもあるということである。
兄弟が出たところで、例で示そう。
「兄弟は他人の始まり」の元句に対して、
縁台は将棋の始まり
なら地口では通用しても、捩りとしては音の似通いにもう一工夫欲しいところで、
「頂戴」は他人の始まり
として、初めて捩りとしての効果が出てくる。以上のことから捩りは地口と同じもの、と決め付けることはできない。
一般に捩り作品は、たいていが原作とくらべ軽妙に諧謔させて作る。つまり原作の内容を貶めることで、その摩擦(落差)のおかしみを誘い出すのがポイントになる。
あと一つ留意したいことがある。〈パロディ〉の語の乱用である。捩りとパロディの語義は同じとみなしてよいが、用法にけじめがついてない。斯界の学識者と称する人たちが、著作などで和歌や俳諧の捩りを引用するさい、パロディを無神経に連発している。およそ用語にはTPOに応じた使い分けがあるわけで、この一事をもってしてもご当人が本当に「洒落」の意味や言葉の正しい用法がわかっているのか疑わしい。パロディの語の使用は、国文の場合近・現代作品にとどめるべきである。