文藝遊戯の基本系統1 折句系

折句系 おりくけい
和歌・狂歌・俳句等の各冠(かんむり)(頭(かしら))や沓(くつ)など特定の箇所に配置された文字頭音をつづると、それだけで意味のある語句となるものを〈折句〉という。西欧でいう〈アクロスティック〉に相当、これの多くが〈冠折句〉または〈毎句冠折句〉の形態をとっている。
和歌の場合、二十一代集のうち折句作品を収めてあるのは八集、総歌数も二十七首と意外に少ない。折句で歌体を整えるには高度の技巧を要するからであろう。もっとも『古今和歌集』では折句といわずに「物(もの)名(のな)」という呼び方で巻十に何首か収めている。
折句にふれる場合、必ずといっていいほど引き合いに出されるのが、在原業平(なりひら)(八二五〜八八〇)が三河の八(やつ)橋(はし)で詠んだ羈(き)旅(りよ)歌である。「かきつばたといふ五文字を句の首に据ゑて旅の心を詠まむとて詠める」との詞書(ことばがき)のもと、
から衣きつつ馴れにしつましあればはるばる来ぬるたびをしぞ思ふ(傍点筆者) 『古今和歌集』巻九  
の毎句冠折句詠がそれである。八橋で鑑賞した「かきつばた」の一語が、しっかりと構成された歌体の各句頭に無理なく折り込まれている。
 折句の典型的な例をもう一首、同じく古今集から引いてみよう。「朱雀院の女郎花合の時に、をみなへしといふ五文字を句の首に置きて詠める」とした紀貫之(きのつらゆき)(八六八?〜九四五?)の作で、
  小倉山峯たちならし鳴く鹿のへにけむ秋を知る人ぞなき (傍点筆者) 
では、各句頭を平仮名でつづると「をみなへし」となる。右の「かきつばた」「をみなへし」のように、折句中に折り込む語句を歌学用語で「隠句(いんく)」といっている。
折句は平安初期、すでに殿上歌壇に定着し、おりにふれ詠歌に遊び心を託す歌人にもてはやされていた。しかも折句は、言語遊戯を象徴する美的感性をうかがいしのぶことができるため、古来「言葉遊びは折句に始まり折句に終わる」と膾炙(かいしや)されるほど奥の深さをそなえている。元初、折句の折込み所は句頭と慣習的にほぼ一定していた。それが時とともに、隠しを沓(くつ)(句尾)に置いたり、あるいは冠と沓の両方にまたげるなど、より複雑な技巧をもつものへと進展していく。
なお、言語遊戯研究家の和田信二郎は、著『巧智文学』において、折句を冠折句・沓冠折句・毎句折句・毎句沓冠折句の四種に別している。本書もこれに準じることにするが、毎句折句は新たに〈毎句冠折句〉と〈毎句沓折句〉の二種に立て直し、併せて五種に分けることにした。

《参考1》
   仮名序    紀貫之筆やまとうたは、人の心をたねとして、よろずのことの葉とぞなれりける、世中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、見るものきく物につけて、いひいだせるなり、花になくうぐひす、水にすむかはづの声をきけば、いきとしいけるもの、いづれか歌をよまざりける、ちからをもいれずしてあめつちをうごかし、めにみえぬおに神をも、あはれとおもはせ、をとこ女のなかをもやはらげ、たけきものゝふの心をもなぐさむるは歌なり、この歌、あめつちのひらけはじまりけるときよりいできにけり 『古今和歌集』仮名序文
《参考2》
   再び歌よみにあたふる書  正岡子規
貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拝するは誠に気の知らぬことなどゝ申すものゝ、実は斯く申す生も数年前迄は古今集崇拝の一人にて候ひしかば今日世人が古今集を崇拝する気味合は能存申候。崇拝して居る間は誠に歌といふものは優美にて古今集は殊に其粋を抜きたる者とのみ存候ひしも、三年の恋一朝(いつてう)にさめて見ればあんな意気地の無い女に今迄ばかされて居つた事かとくやしくも腹立たしく相成候。『日本新聞』明治三十一年二月十四日
*正岡(まさおか)子規(しき)(一八六七〜一九〇二)は俳人歌人
子規は日本新聞に十回連載の「歌よみに与ふる書」シリーズで、まず近代歌壇の不振を嘆き、次いで古今集と宮廷歌人を徹底的に攻撃した。さらに古今の流れを継ぐ桂園派批判にホコ先を向け、その頂点にあった香川景樹(かげき)を「古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申迄も無之候。俗な歌の多き事は無論に候」と酷評を加えている。浅学の徒が見てもかなり的外れな攻撃だ。歌道における古今集の存在感はいまなお圧巻で、歌人にとって父祖の集であることを多くの歌学者が認めている。景樹にしても、平易に努めた歌風は高く評価され、「海内、翁の門人のあらざる国一つとしてなし」と弟子に言わしめたほど人気があった。子規は万葉集によって歌道に開眼し、写実短歌で独自の作風を築いた。秀歌も多いと思う。が、彼は極論を弄し、自分にそぐわない詠風は敵に廻して独善を誇示している。ホトトギスは何も竹の里だけで啼くわけでないことに気づくべきだった。